益子焼とつかもと

益子焼の歴史と塚本窯 当時の主な製品は、庶民の台所用品

益子焼は、笠間にて陶技を学んだ大塚啓三郎(おおつかけいざぶろう)が、1853(嘉永6)年、町内の大津沢の粘土を用いて 陶器製造に着手して以来のものです。益子焼は創業当初から黒羽藩の殖産事業の一つとして庇護をうけ、創業期、5~6軒であった 窯元も、江戸末期頃には約20軒になりました。
当時の主な製品は、かめ、すり鉢、紅鉢・片口・行平・土釜・土鍋・土瓶などの庶民の台所用品でした。
1871(明治4)年、廃藩置県により黒羽藩は解消し、御用窯としての益子焼は民窯へと移行します。 藩からの援助は途絶えたものの、創業から20年近く経過して窯数も増加し、 東京という大きな消費地を控えて陶業は着々と発展し、関東近県にも販路が拡がってゆきました。


しかし、明治末期頃になると、生産過剰と粗製濫造によって徐々に売れ行きが悪くなってきました。 最大の消費地である東京の人々の生活様式の変化(ガスの普及に伴い軽金属の鍋・釜への移行)も、 その原因の一つと考えられます。こうした不況に対応するために、窯元は組合を結成しましたが、あまり効果は現れませんでした。

1920(大正9)年頃の不景気は最もひどく、一時生産中止する窯元が続出しました。こうした中、 1923(大正12)年9月の関東大震災によって、東京は一挙に灰燼に帰しましたが、その復興に伴って益子焼の需要は急増し、 しばらくの間、いくら作っても間に合わないほどの好況をもたらしました。
ちょうどその頃、1924(大正13)年、浜田庄司(はまだしょうじ 1894-1978)が益子に定住・作陶に入りました。佐久間藤太郎(さくまとうたろう 1900-1976)をはじめ、幾人かの陶工が強い影響を受け、浜田らが唱える「民芸運動」の理念に基づいた民芸品(花瓶・茶器・食器・火鉢など)の製造に着手しました。

台所用品から民芸の益子焼へ

終戦後、飛躍的な科学技術の発達・経済の成長に伴い、日本人の生活様式は大きく変化し、 創業以来の台所用品の需要は、1950(昭和25)年頃を境として減り始め、1955(昭和33) 年には壊滅的なものとなりました。この需要の変化に対応して、生産の中心を台所用品から民芸品へと転換しました。 その手本は浜田の作品であり、すべての窯元が直接間接に浜田の影響を強く受けた製品を作り始めました。 この作風こそが、今日、多くの人々がいだく「益子焼」のイメージの原点となっています。


生産の中心を民芸品に転換した後も、すべての窯元は不安定な苦しい経営を余儀なくされていましたが、 こうした時期、1957(昭和32)年に、信越線横川駅の「峠の釜めし」の弁当容器として、塚本窯の釜(通称:釜っこ)が取り上げられました。これがマスコミの影響もあって大変な評判を得て、年々注文が増大し、自社製造だけでは補いきれなくなった塚本窯は、20軒に及ぶ窯元に発注し、これによって益子焼業界全体の経営が安定しました。

四代目社長夫人シゲの確信 従来の陶工に、新しい美的感覚を備えたデザイナーが加わることによって、魅力ある益子焼が生まれる

「釜」の売れ行きが順調に伸びる一方、全国的に民芸ブームが沸き起こり、 それによって益子焼の名も一躍有名となりました。これに伴い、民芸品の需要も活発になりはじめ、 生産体制を整えることが急務となりました。塚本窯では、4代目社長・塚本武の夫人シゲが、 ”従来の陶工に、新しい美的感覚を備えたデザイナーが加わることによって、魅力ある益子焼が生まれる” という確信のもと、これに資するために、外部の陶芸志願者を受け入れる「研究生制度」を設けました。 この制度は、益子を代表する陶芸家のみならず、数多くの陶芸家を全国に送り出しましたが、中でもその第2期生であった 天才陶芸家・加守田章二(かもだしょうじ)の出現は特筆すべきでしょう。


加守田は、高村光太郎賞など有力な賞を次々に受賞し日本陶芸界の寵児と呼ばれました。多くのファンは彼の個展を待ちわび、益子の若い陶芸家たちのカリスマ的存在でもありました。1983年、49歳の若さで夭折しましたが、没後その声価はますます高まり、加守田を目標とする多くの若手陶芸家が益子に入りました。この加守田の出現により、浜田の系譜とは違う、もう一つの益子焼の潮流を形作っていくことになったのです。

益子焼の現在

今日の益子焼は、まさに転機に差し掛かっています。現在の益子焼は消費者の嗜好に合わせ、 薄手・軽量・デザイン性重視の傾向にあります。しかし、それによって益子焼本来の味わいが 失われた商品が氾濫し、単に益子において製造され、売買されているものは全て「益子焼」 と称するという状況に陥ってしまいました。

こうした状況の要因は、主に二つのことが考えられます。一つは日用品であること。 つまり、日常使うものだからこそ、消費者のニーズに応じて形や色が変わるのは、ある意味で焼物の本来の 姿であるといえましょう。もう一点は、外部出身の陶芸家が多いこと。現在益子には400前後の窯があると いわれていますが、その内の約9割は個人の陶芸家であり、その殆どが外部出身者です。 陶芸家が独自の作風を目指すほど、従来の益子焼から遠ざかるのは仕方のないことかもしれません。


最近になって、こうした状況を打開するために、創業期以来の伝統的な益子の釉薬と技法を用いるという浜田以来の民芸陶を踏襲し、これに今日的なデザインを取り入れた商品開発の動きも見られます。素朴で、健やかな益子焼の独自性が、徐々に見直されつつあるようです。

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